明治10年代の安小

安中小学校校舎 明治176
 旧安中藩武家長屋の向かいにあたる小林光氏邸宅の場所にあった頃の安中小学校。裏面には「明治十有七年六月求之 公立安中小学校写真」とあり、新築校舎が開校して約1年後の安中小学校の写真であることが分かる。

寄付金額 明治10
 第11大区6小区長猪狩懐忠・学区取締真下珂十郎が群馬県令楫取素彦に願い出た安中駅在住士族による安中小学校への寄付願。寄付願は明治10522日に許可された。

為取換約定証 明治137

 明治137月〜明治166月までの三年間、長徳寺本堂の外陣を仮小学校として1年間30円で貸し出すことを長徳寺住職・檀家総代・安中駅学務委員の間で取り決めた約定。

公立小学校教科書改正二付開申書 
明治135

 安中・上野尻・下野尻小学校教員及び学務委員から河野敏鎌文部大臣へ教科書の開申書。『修身説約』や『日本地誌略』を『皇国地誌撃要』に交換、半農半商の者が多いことから『小学農業篇』を『博物書』と交換、養蚕農家が多く女児には『萬国地誌』や『萬国史略』は不急なため『養蚕新論』に交換することなど当地の実情に合わせた教科書の変更を願い出ている。
教科書は当初自由採択であったが、下記のように変化をとげている。

明治13年 使用禁止書目が発表
明治14年 開申制
明治16年 認可制
明治19年 検定制
明治36年 教科書疑獄事件
明治37年 国定教科書

書額「苟不至徳至道不疑」 
 楫取素彦書 明治16

 群馬県令楫取素彦の揮毫による書額。中庸の一節「苟も至徳にあらずんば、至道は凝らず」と書かれている。楫取は明治16年6月1日の新築校舎落開業式に出席している。楫取は明治7年に熊谷県権令、明治9年に熊谷県改変に伴って新設された群馬県の県令となり、明治17年に元老院議官に転任した。また、磯部温泉には楫取の別荘(現在の旭館)もあった。

大懸額「公立安中黌」
 山岡鉄舟書 明治16年4月

 山岡鉄舟(鉄太郎)の揮毫による懸額。明治16年に建てられた新築校舎の玄関に掲げられた。明治17年撮影の校舎の写真(小林光氏所蔵)には玄関に掲げられた姿が確認できる。

公立安中小学校既設開申書 
明治1412

 布達により安中小学校の設置目的、位置、名称、教科書用書及び器械、授業料、経費などを取り調べて県に提出したもの。書籍之部に群馬県から出された木戸麟編『修身説約』や吉田嘉疏編『上野地誌既略』などが見られる。また、器械之部に見られる地球儀と太鼓は、安中市指定重要文化財となっている「太山融斎の地球儀」と「安中様のお太鼓」と考えられる。

小学校日誌 明治16
 明治1661日午前11時より、楫取素彦群馬県令、県学務課、警察、碓氷郡長、甘楽郡長、碓氷郡書記、戸長、学務委員、安中小学校校長・訓導・教員・生徒一同、高崎中学校生徒、師範学校生徒、近隣学校の戸長・学務委員、訓導・教員、建築委員などが参加して新築校舎落成開業式が執り行われた。生徒数の増加により旧撃釼場を手狭となり、長徳寺や妙光院を仮校舎として借りていた。そこで、旧安中藩武家長屋の道路向かいにあたる旧安中藩士内藤肇の邸宅(現在の小林光氏邸宅)の場所に新築校舎を建設し、その玄関には山岡鉄舟筆の大懸額「公立安中黌」が掲げられた。

小学校職員申請書 明治182
 碓氷第一小学校の職員男性13名・女性1名の雇い入れを学務委員から碓氷郡長へ申請したもの。添付された職員履歴書から、地元出身の男性職員12名のうち、3名が造士館出身者で、残りの者は安中・中宿・間仁田・野殿小学校を卒業したものである。野殿小学校の統廃合が進み、安中小学校は古屋・中宿小学校などと合併して碓氷第一小学校、野殿小学校は第一分校、間仁田小学校は第二分校と改称した。

安中様のお太鼓
 安中小学校が明治16年に新築開校すると、太鼓は正面玄関の上り口に吊るされ、校時を知らせる太鼓として使用されていた。この太鼓は、元は安中城太鼓櫓にあった安中藩の時を知らせる「時の太鼓」であり、その太鼓の音は熊谷の土手まで聞こえたと言われている。『御代々留』によると、安中では貞享2年の板倉重形の時に太鼓で時を知らせ始めたとあり、それ以前は大泉寺の鐘が「時の鐘」として使用されていた。安中小学校開校100周年を記念して昭和48年に皮の張り替えを行った際に、鋲穴から考えて過去6回張り替えが行われていたことが判明している。

沿革誌

安中小学校現況録 明治144 明治14年の安中小学校の現況記録。明治16年に校舎新築を決定したが起工に至っておらず、安中・上野尻・下野尻の3校で授業を行っていること、安中小学校は団結6校(中宿・岩井・野殿・間仁田・古屋・秋間)の上等小学校を担っていたことなどが書かれている。生徒458名(団結6校からの通学生35名を除く)と増えたため訓練・教員・補助員などは開校当時の3倍に当たる18名となり、その内造士館・文学校出身者は6名であった。後半には教員の履歴書があり、星野輝は安中藩士添川寛平(廉斎)に従い漢学修行をしたとあり、江戸詰の藩士の子弟が藩校ではなく、江戸詰の安中藩儒に従って修行をしていたことが分かる。

安中小学校 第一次校舎平面図 明治166月竣工
「安中小学校100年のあゆみ」より


 第一次校舎は明治16年6月1日、旧安中城内の「西町四十二番地」に新築された。

分校仮学校

上下野尻学校合併伺 明治12925
 安中駅戸長小林竹七郎、学務委員湯浅治郎・黛孝七郎・小林禎は碓氷郡長古川浩平を通じて上野尻学校と下野尻学校を安中小学校へ合併することを群馬県令楫取素彦に申請し、同月30日に許可された。この合併は明治12年に安中駅・上野尻村・谷津村・常木村・下野尻村が合併して安中駅となったことで、学校も合併することになった。

分校仮学校之儀二付伺 明治18年2月27日
 明治18年2月19日に学区改正に伴い学務委員小林禎が佐藤与三群馬県令に対して、碓氷第一小学校第一分校は明治20年に野殿村字上ノ平に新築することを目指し、それまでは宗泉寺の建屋及び境内を区画して仮校し、第二分校は明治21年の新築を目指し、それまでは下間仁田村字六十三石の佐藤新太郎所持の持家を仮校とすることを申請し、群馬県から許可された。第一分校と第二分校の略図が添付されている。

旧第五学区間仁田小学校資産処分ノ儀御 
明治18131

 間仁田小学校の資産処分に関する伺い。資本金は上間仁田・下間仁田村公学資金として両校の教育費の補助とし、借地の校舎は碓氷第一小学校第二分校の仮校舎に引継ぎ、書籍・器械・器具は第二分校へ引継ぐとしている。添付書類の書籍目録附器械器具は同年5月付で、この伺いは同年69日に群馬県から認められている。

旧古屋小学校資産処分之儀伺 
明治18317

 古屋小学校の資産処分に関する伺い。資本金は古屋村公学資金として同村の教育費の補助とし、借地の校舎は返却し、書籍・器械・器具は安中小学校共有品とするとしている。この伺いは安中小学校共有品とした箇所が添削され、碓氷第一小学校へ引き継ぐと改められ、同年69日に群馬県から認められている。

安中小学校沿革誌 明治17年5月
 明治6年7月より明治16年12月までの安中小学校の沿革誌。沿革誌は学校の歴史・教員・生徒などを記したものであり、永年保存資料とされている。

安中小学校沿革誌 明治17年5月
 明治17年10月より明治17年4月までの野殿小学校の沿革誌。